ピエール・カルダンと言う名前はおそらく子供の時に最初に知った「ファッション・デザイナー」の名前だ。正確に言えば、どんなファッションかは知らないのだが、あらゆる物にその名前が付いていたような気がする。例えばタオルや靴下、魔法瓶、ありとあらゆるものにピエール・カルダンの名前が付いていたものだ。
今思うとそれは「ライセンス契約」されて日本であらゆるものにそのブランド名が付けられていたということだ。そのファッションでのライセンス契約というものを最初に始めたのがピエール・カルダンなのだった。
ということを映画「ライフ・イズ・カラフル」を見て知った。
知名度は高いが、意外と知らないその人のドキュメンタリー伝記映画。
現在98歳で現役のデザイナー、それだけでもびっくり。まだ生きていたんだ(失礼しました)。フランス人じゃない?というのにも驚いた。イタリア人だった。ムッソリーニの独裁政治時代の難を逃れるため家族でフランスへ。その時末っ子のピエールは2歳だったそう。
戦後クリスチャン・ディオールのアトリエへ、1950年には独立する。
彼の最もすごい功績は富裕層向けの仕立て服(オートクチュール)全盛期に、オートクチュールのファッションデザイナーとして初めて既製服(プレタポルテ)市場に参入、百貨店で手頃な価格で手に入れられる「モードの民主化」をしたことだった。当然それまでのモード界からは猛反発を食らうが。メンズコレクションを最初に始めたのもカルダンだった。
モデルに白人以外を起用したのも彼が最初。アジア系、アフリカ系など拘らなかった。日本人初の世界的ファッションモデルになった松本弘子さんはカルダンの起用がきっかけ。母親から50年代から60年代当時に「八頭身美人でモデルの松本弘子という人がいた」という話は聞いてはいたが、この度動く映像でしかもカラーで確認できた。なるほど、山口小夜子さん以前に、この方がいらしたのね。キュートで着こなしもさすがでした。
そしてライセンス契約を導入して・・・というビジネスセンス。何もかもが革新的だったのね・・・と知りました。だからビッグネームなのだ。
もちろん肝心のファッションも素敵でした。宇宙ルックとかは街で着られるかはともかく、楽しめて斬新。とてもアーティスティックだった。色の使い方もカラフルでハッピーな感じ。なんか元気でるぞという雰囲気は時代もあるのかな。
そう言えば母親のコートで、あのPのロゴが全面に織り出されたコートがありました!覚えてます。そして初期のビートルズが着ていた襟なしスーツはカルダンのデザインだって。知らなかった!